葵上を観る。

葵上を鑑賞した。
西荻薪能は、井草八幡宮の風に揺れる葉音の中で行われた。
女性の嫉妬や怒りを題材にした演目だ。
偶然、お能を観たいと思っていた矢先に見かけた広告。
選んでこの演目を観たわけではないのだけど、あまりにも今に繋がった〜。

そう、芸術は目を向けられるのだ。
つらい感情を、逸らさないで見つめることも、心に訴えることもできる。
もちろん観るかどうかは選べばいい。怖いならそう感じればいい。
わたしは今知りたいものが目の前に広げられたこの時間を忘れないだろう。涙が出そうだった。
薪の匂いにともされた夜の能舞台は、炎と衣装のゆらめきが幻想的で
すばらしい光景であった。

以前から般若面の造形美に興味があって
能面美術館で数センチの距離で拝見したときも、本当に女性が怒るとこんな顔に見えるし(笑)
「うまいなあ、よく知ってるなあ」と妙に感動していた。
4月に見逃した道成寺もたまたま般若面が出てくるが
想像では「怖そう!」と思っていたのだ、ところが
実際表情が般若に変化した六条御息所を見た瞬間
悲しくて切なくてかわいそうでしか、なかった。

地団駄を踏んで、嫉妬の相手を扇で打ち付けて、泣いて「うらめしや〜」とか言って
どうしょうもない生霊である彼女は、ただ悲しい存在だった。

ああ、怒りはなんて切ないんだろうと
さらに大勢の人に鎮められ小さく力の抜けた様子が
かわいらしく愛おしいほどで。

現代はありがとう病だそうだ。
なんでも感謝に置き換え、結果ほんとうの感情を歪めてしまうことも多いため、結局こころが混乱してしまうそう。
感謝とは本来めったに表現できるものではないらしく
大事なのは、相手に喜びや嬉しさを感じた心を、まっすぐ伝えられることでしかないらしい。
感謝はなかなか得難いもの、「有難い」という字を使うのもそのためだ。
だからこそその得難いものを感じられ伝えられることは貴重な時間となるし(きっといつでも貴重と感じていいんだろう)
あくまでも相手をおもんばかる感情であり
自分に言い聞かせるごまかしではない認識も重要だと思う。
それを知ったとき、隠すべきとしたり表現するべきでないとする「怒」という感情を
見ないことが本当によいことなのだろうかと疑問に思ったのだ。

怒りとは、そう感じたなら感じたと、自分が認識することは、「よいこと」なのではないかと。
あくまでも自分で感じるのみで、人に伝えたり影響を及ぼさないことも大事であり。
喜びも怒りも哀しいも楽しいも、自分が感じたことを認識することこそ、重要なのではないのかな。。

「葵上」も、人により怖いとかつまらないと感じた人もいるかもしれないが、それでいいはずだ。
ただ事実として、純粋でシンプルな人の持つ感情の一部分はたしかに存在してると表現され
こうして現代にまで受け継がれている。
わたしはもっともっと精進して、物語や表現方法を模索しなくては〜と
改めてふんどしを締め直す気持ちになった。
ジンジャー展も、全ての人によい感想をいただいたわけではなかった(申し訳ない…)。
もちろん本当に感じてくださった方もいる。
全ての人に理解される方法を取るのは難しいことだが
受け継ぐことはきっとできるのだろう。

がんばる〜
思わず意気込んで書いちゃった!
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by nemo_yuka | 2010-05-10 10:44