この世界に存在すること

「もしもし下北沢」を読み進めてるけど
なんだかこの感じは今に少しリンクして色んなことが明るくなってゆく。
今朝の虐待についてのテレビ。
手をあげることについて先日、教育のためには必要では?と友達と話してたけど
実際は手を上げるのはどんな理由であれ、暴力らしい。
「暴力を持って、人を制することを、正当化する人格を、見せる」ということになる。
奈落に突き落とすような言葉だって暴力であり、相手にとって傷となれば
「あなたのため」という理由は正当化できない。
相手に例えばチックや吃音、影が落ちれば
ストレスのサインだし、そこではっと、「傷付けた」と気付けたらいいのだが
気付いても対処できたり、
親(年長者)が自分の心を完璧に抑制するのは難しく
そんな時、「抑制することを身に付けることができるんだよ」という学びの本や場があることを
大人が前もって知っておくことは、大事に思う。
また暴力を与える方に、「あなたこそ学ぶことが必要だよ」と
優しく肩を抱いてくれる何かも
あってもいいように思う。優しい視点でそう願う。

自分で考えて(もしもし下北沢の親子みたいに)回復を選べる余裕や強さを
全ての人が持てていたらどんなにすてきだろう、でも、
自分ではどうすることもできない抑制できない怒りが人にとって暴力になっているのが明らかなら
人に本気で助けてもらうことも、人間同志にできる一番のすてきなことではないだろうか。

とにかく人を傷つけることを自分の救いにしてはいけない。
助けを求める行為が人にとって暴力であってはならない。
そんなやり方でなく、誰も傷つけず自分が救われる方法はいくらでもあり
自由に自由に、どんどん探していけるのだ。
そんな自由な心を、全ての人が持てることを願う。

そして探る方法は病院や宗教ではなく
自然やごはんや動物や赤ちゃんや海や山や絵や音楽や街や仕事などに
たんと含まれているのだ。
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by nemo_yuka | 2010-10-06 22:38