ふつうの価値観について

ハワイの教えの本を読んでる。

心は3つの自我でできてると。
ベーシックセルフ、ミドルセルフ、ハイセルフ。
こども、おとな、親 の3つでもあるという。
わかりやすいな。そうだと思う。

その中でこどもの心である基本の自我から
恐れや恥、罪の意識をとりのぞくことが重要とあって
ああ、そうかと思った。
そうであってはじめて、自由に流れる豊富なマナがあふれると。
実感あるわぁと思った。

わたしはちょっと前までそれを抱えちゃってた。
そう思うことなかったんだ!恥じることではなくあの意識は尊重していいんだ!と
思えてやっと
息ができるようになって、目の前が明るくなった。
すごく怖くてくるしい期間だった気がする。

自らの恐れや恥、罪の意識をてばなすということと、
人に恐れや恥、罪の意識あたえないという、ふたつを思った。
このふたつはきっとくっついてる。

人にはときどきよく理解できないことをもたらされるのは仕方ないと思う。
よくわからなくても感謝して、素直に受け止めようというのが素敵な考え方かもしれないし
右から左へ流すのもひとつ。
でも相手の怒りを治めるために
自分の考えがまちがってるんだと無理にこころに落とし込んでしまうと、
本当は思っていないのに、無理に自分をわるものにすると、
それと同時に恥の意識、罪の意識、恐れの意識が生まれちゃう。

それがどれほど余計な意識か、もうつくづく理解した。

イメージなんて、怒りの勢いや声のトーンで
人に案外かんたんに押し付けることができちゃうものなんだと思う。
そうなるなんて思わなかった、なんて恥ずかしいことしたんだろう、
なんてまちがってるんだろう、
もう、顔を合わすことができない
という感情が意味なくこころにやってくる切なさよ!

また「腑に落ちないけど自分はわるい」というイメージから抜けられなければ
たぶん体調を崩しちゃう。
更に、「腑に落ちないなんて素直じゃない」と、
二重に罪に感じてしまう。。

でも腑に落ちないなら「いや、ちょっと待て」が健全なんだと
今はゆるーく感じている。

それはおとなの自我に検証してもらうということ。

もう一度、行動を洗えたら
素直になれるかもしれないし、いや、やっぱ納得いかん!となれるかも。
時間差があっても、すっきりできたらどれほど良いことかしれない。

一生、持たなくていい罪や恥や恐れの意識を持ったまま生きてしまう可能性があるからだ。

「いや、ちょっと待て」と疑問に思う時間を取らなかったら
そうなる可能性がある。

もし、本当は罪に思う必要がなかったら、
相手のたまたま抱えていたものが投影されただけだとしたら
余計な意識は、本当にとんでもなく余計になっちゃう。
余計なのに、気付かなかったら…
抱える必要がないのに、持ち続けてしまったら…

それはとてもとても危険なのではないだろうか。
生命力をうばってしまうほどの意識になるのではないだろうか…

そんなのダメ!と、なんだかはっとしてしまった。

会社や、目上の立場、親しすぎる関係では
ときどき感情がコントロールできずに投影やイライラで、
無罪のことで責めてしまうことはあると思う。
本当にちょっとした嫉妬や気に入らなさで。

そんなことで、
相手の人生に罪や恥や恐れが加わるのを良しとすることは、
たぶんふつうは、できない。

「はっ」と、ふつうに立ち返ることを
忘れないでいたいと思った。

ふつうの人でいられることが、なんだか一番崇高ですばらしい気がする。
ふつうの、価値観で望みで、優しさで穏やかさを。
ただ何気なく持ってること。
すごく賢人じゃなくていいから。
ときどき失敗はしても、人の心を犯すまではしない、ふつう。

生命力をうばわない、ふつうをだ。

すごくなくていいけど
そこだけは!と、なんだか思った最近です。
[PR]
by nemo_yuka | 2012-01-28 22:04