手を送る

病気をしたとき
本人は、まわりのみんなの幸せを願ってることを
ご存知だろうか。
恨んだり、なんで自分ばっかりとなげいたりは
一瞬はあるかもしれないけど
その後健康に感謝できたり
心配してくれる人を気配れたり
おかげさまの気持ちでいっぱいになる。
病気をされた方の笑顔はほんもの。
だからこちらが多くをいただけたりする。
そして身近で看病してくれた人に
心から感謝を思っている。

看病や介護は、たいへんでも
感謝をいただく時間でもある。
する方はただたいへんなだけかもしれないが
される方の、人に会えることやそばにいてくれることの
喜びやありがたさははかりしれない。
そこに恐縮が入ってしまうのは、ちょっと寂しいことだが
それよりも何倍も、ありがとうを送っている。
それらを受け取れる時間が看病や介護でもある。

祖母が危篤を越えた頃
そんな時に結婚式をするなんて不謹慎と、
お見舞いにも来ないなんてと
看てた人は思っただろう。

わたしたちはそれ相当に
遠くから心配したり快復を願ったり
不謹慎とも思いながら
一生懸命神様に
すべての家族の幸せを願った。
快復を喜んだ。
離れていても、願いは届くのも知っていた。

でも、現実は、足りないでいっぱい。
それは病気をされた方の思いでは決してなく
そこに大変さを見る人の、求める手。

その手に、感謝を乗せてあげたい。
祖母からの感謝、看病された人からの感謝
人より多く看てくれた感謝、代わりにそばにいてくれた感謝。

何もないなんてことはない。
一番多くを受け取ってるのは病気の人のそばにいたその人自身なのに
なぜそれを、見られなくなっちゃうの。

そして快復も、結婚も、喜び事なのに
不謹慎と見ることは
多くの感謝も感じられないことは
なんだかとても寂しいじゃないかと
思ったりした。

だけれどその求める手はきっと見過ごされない。

いつか、たくさんの気にかけてもらった差し伸べられた手に気付けた時
誰かの足りないに、
手を差し出し返せたらいいと思った。
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by nemo_yuka | 2012-12-13 09:55