受動ゟ能動 の、

何かを産み出すというのは、
産まれたものが世界を楽しむためのもの
だと思った。

欲は、それらを楽しませてあげたいというところにあるのかも、
と思ったら、なんだか開けた。

自分がそれによって楽しませてもらうのではないみたい。

楽しいのは産むことと、それらと初めて会うときのワクワクのことなのかも。

そうしたら、永遠に産み出し続けられるし、その度に楽しめるんだな。
縛りも限定もなく。

産み出したものから楽しみをもらうのは、二次的な、たまたまのことでしかないのかもしれない。
ものごとは、行動も産むことも、手放したそれらから、
楽しませてもらうものではないのかも。

自分がどう感じたかなだけで、
だからどんなことも本当は、楽しめる。ものなのかもしれない。

そんなことに気付いたら
逆ももちろんあるんだ、と感じた。

楽しませてもらおうと思っていたら
そうでなかったとき、なんで楽しませてくれないの?もっと楽しませてよ!って
怒っちゃうかもしれない。

そうして対象に、自分の気持ちの処理を任せたら
相手は困ってしまう。

だから、心の中で、思いの品が良くなるまで待ちなさいと言うのだろう。

自分で「楽しめる」ことを思い出し
人に、思いの処理を任せちゃいけないのだろう。

責任転嫁っていうのは、
辛さの処理を人に任せることもそうだけど
そうしておきながら、その人のフォローもできないところに、問題があるのだろうな。

辛さや罪悪感や責任は、
自分自身でも縛り付けることはないし
人へ渡すものでもない。

また辛さや罪悪感や責任の、
思い癖の縛りを自分で断ち切ることが、本当に必要な行動なのかもだし
渡されても同じだ。

辛さが固定されることが一番大変。だからこそ
そちらを選ばず
楽しめることをどんどん選んで、また産み出していいんだと思う。

楽しいは
受け身になって、楽しませてもらうというものではなく
能動的になってどんどん、いつでも、ずっと、いくらでも
得ていけるものなのかもしれない。
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by nemo_yuka | 2013-05-22 14:09