光の方へ

「こわす」は、無になること、だからはじまりにもなる。

こわされてしまったものは、再生できるだろう。

こわせてしまえる気持ちは、生産のつもりなのかもしれない。
でも生産ではなく、無にするものだ。

再生から、生産できるまでは、時間がかかるが
こわすのは一瞬で悪気もなく
だからその地の上には、好きなだけ生産できてしまう。

だけど新しく生産できても
その生まれた場所で何が行われたのか
認識できてなければ
土は変わらず悪しきものは受け継がれてしまう気がする。

みなが、安心して暮らせる空間を
そこにまず、生まないと
平和も幸せも育まれないような気がする。


こわされて無になっても、かならず再生するけれど

人の分をこわして無にすることは、生産ではない。

こわすことができるのは、自分の分だけだ。


自分に対して破壊を課せれるなら、新しい試みになり変化になり耕しにもなる。
人の領地をこわして生産できる横暴さは、淘汰されゆくものかもしれない。
現代は、そうではないかもしれないけど
多くの人の意識は、ただ平和を願ってるんだと思うから。

どうして平和をこわすことができてしまう状況があるのかなと
つらく思うけれど
それでも再生を願って水やりして
光の方へ伸びて行く元気いっぱいの茎を思うのだ。
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by nemo_yuka | 2013-07-17 17:53